2023年12月号掲載
[増補版] 神道はなぜ教えがないのか
著者紹介
概要
日本固有の宗教である「神道」。初詣で神社を訪れるなど現代の生活にも深く根付いているが、それがどういう宗教かを知る人は多くはないのではないか。開祖がおらず教義もない、そんな神道の成り立ちや特徴について、宗教学者が仏教などとの比較を交え解説。神道を理解することは、日本人の世界観を知ることにもつながるだろう。
要約
「ない宗教」としての神道
神道は、日本固有の「民族宗教」である。
世界の宗教を分類する上で、「民族宗教」と「世界宗教」を区別することが一般的だ。民族宗教は1つの民族に固有の宗教で、神道の他には、ユダヤ教やヒンドゥー教があげられる。
民族宗教には特定の創唱者が存在しないが、世界宗教にはそれがいて、その教えが民族の枠を超えて広がっていく。仏教やキリスト教、そしてイスラム教が世界宗教の代表である。
神道は開祖も、宗祖も、教義もない
では、神道とはどういう宗教なのか?
神道は、宗教としては希に見るほどシンプルなものである。まず何より、神道には開祖・教祖にあたる人物がいない。宗教について説明する際、それぞれの開祖 ―― 仏教なら釈迦、キリスト教ならイエス・キリストがどのような生涯を歩んだということから話が始まることが多い。ところが、神道にはその開祖にあたる人物がいない。
仏教なら、開祖の釈迦だけではなく、宗派を開いた宗祖や、有名な僧侶がいたりする。ところが、神道には宗祖はいないし、誰もが名前を知る神主や神道家などはほとんどいない。
それを反映し、神道では教義というものがほとんど発達していない。一般の人たちがそれを実践することで救いを得られるような、わかりやすい教義が神道の世界では生み出されていないのだ。
そもそも、神道における救いというものからしてひどく曖昧である。私たちが神社で祈りを捧げる時、「家内安全」や「商売繁盛」などを願う。けれども、この祈願だけで終わってしまい、神は救いのための手立てを与えてはくれない。開祖も、宗祖も、教義も、救済もない宗教が神道なのだ。
神社の中心には実質的に何もない
神社を訪れて、鳥居をくぐり、参道を抜けていくと、目の前には社殿があらわれる。社殿の多くは、手前に拝殿をもうけ、その奥が本殿になっている。拝殿は参拝のための場だが、本殿にはその神社特有の祭神が祀られている。
一般の参拝者は、拝殿までは入れても、本殿の中には入れない。もっとも、本殿の中に入っても、直接神の姿を見ることはできない。神の姿を象った神像なども存在せず、あるのは、神が宿っているとされる鏡や御幣などの依代だけである。
ここでも私たちは、「ない」という事態に直面する。神に姿はない。タマネギの皮をむいていくと最後には何も残らないのと同じように、神道や神社は、その中身を探っていけばいくほど、あってしかるべきものが欠けているという事態に直面する。その点では、神道という宗教の本質は「ない」というところにあるとも言える。