2006年1月号掲載
国家の品格
著者紹介
概要
現在、わが国では、グローバル化は推進すべき、との論調が主流である。そんな中にあって、この趨勢に闘いを挑み、“孤高の日本”たれと説く、異色の日本論。欧米社会の根底にある「論理」、そして「自由」「平等」といった概念の限界を明らかにするとともに、わが国古来の「情緒と形」の大切さについて述べる。今日本に必要なものを示し、日本人に自信を与える1冊だ。
要約
近代的合理精神の限界
今、日本は荒廃しているとよくいわれる。だが、世界中の先進国は皆、似たような状況である。
核兵器や犯罪、テロは確実に広がっている。家庭崩壊や教育崩壊も、先進国共通の現象である。
この荒廃の真因は、一体何なのか?
それは、西欧的な論理、近代的合理精神の破綻に他ならない。論理や合理は非常に重要である。しかし、人間はそれだけではやっていけない、ということが明らかになってきたのだ。
例えば、帝国主義にはきちんとした論理が通っている。「お前たちは劣等な民族であり、自ら国を治められない。だから、優秀な民族である英国人が統治してあげる」という親切な論理である。
1900年の時点の英国には、人格者も聖職者もいたはずだ。しかし、論理がきちんと通っていれば、後で振り返ると非道に思えることでも、なぜか人間はそれを受け入れてしまうのである。
現在、世界を覆い尽くしつつある「競争社会」や「実力主義」も同じようなものである。組織は、無能な者をクビにして、新しい有能な者を採り続けるのが一番いい。論理的に筋が通っている。
だが、それを徹底し始めたらどうなるか。同僚は全員ライバルになり、ベテランは新入りにノウハウを教えなくなる。従って、常に敵に囲まれているという非常に不安定な社会になってしまう。
その好例が米国である。人口当たりの弁護士の数は日本の20倍、精神カウンセラーの数は50〜60倍。競争社会を徹底すると、そういう人々を大量に必要とする社会になるということである。
「論理を徹底すれば問題を解決できる」という考え方は誤りである。論理それ自体に問題が内在するからだ。どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底していくと、ほぼ必然的に破綻に至る。その理由は、次の4つである。
① 論理の限界
第1は、論理や理性には限界があるということである。すなわち、論理を通してみても、それが本質を突いているか否かは判定できない。