2019年4月号掲載
平成の経営
著者紹介
概要
バブル崩壊、金融危機、リーマンショック、中国の台頭…。日本企業にとって平成は“激動の時代”だった。逆境の中、企業はどう動いたのか? また、経営のあり方はどう変わっていったのか? 経営学者が、平成30年間の経営を概観する。来るべき新しい時代の企業の姿を考える上で、平成時代の経営は良い教訓になるはずだ。
要約
1989-1998年:バブル崩壊と金融崩壊
1989年1月7日、長らく病の床におられた昭和天皇が崩御され、昭和という時代が終わった。そして、平成元年が1月8日から始まった。
日本企業は、この平成元年をピークとして、そこから一気に激動と長い下り坂を経験することになる。そうした激動の平成30年間を、3つの10年に分けて見ていこう。
バブルという宴
1980年代の日本のバブルは、86年頃から始まり、絶頂を迎えたのが平成元年(89年)だった。
バブルは、日本の経常収支黒字の累積を背景に、銀行の過剰貸出によって生み出された現象だが、貸出の増加はすさまじかった。たった4年の間に、140兆円強の貸出残高増があった。
これだけのマネーが市場に供給されると、資産価格の激しい上昇が起きる。日経平均株価と公示地価平均が、89年には85年の約3倍に膨らんだ。
しかし、バブルの宴は短かった。株価の暴落が90年から起き始め、地価は91年にピークに達した後、暴落が始まる。バブル崩壊だ。
地価の大幅下落で、不良債権のマグマが爆発
バブル崩壊が始まったきっかけは、大蔵省と日銀による金融引き締めと不動産融資規制だった。
日銀は1989年5月に公定歩合を年2.5%から3.25%へ引き上げたのを皮切りに、計5回の利上げで90年8月には6%とした。その上、90年3月には大蔵省が「不動産融資総量規制」という通達を出し、不動産向けの銀行からの融資を規制した。
建設や不動産関連の取引はすぐに収縮を始め、地価下落が大都市の都心部を中心に始まった。93年の公示地価平均は174万円だったが、97年には83万円に。ピーク時の3分の1近くにまで落ち込み、土地神話は崩壊した。
地価の大幅下落は、不良債権と認定される担保割れ貸付を増やした。不良債権のマグマが爆発したのは97年11月だった。11月3日、三洋証券が会社更生法適用申請を決定。17日、北海道拓殖銀行が業務継続は困難で、他行に営業譲渡すると発表。24日、山一證券が自主廃業を決定。翌98年11月には日本長期信用銀行が、同12月には日本債券信用銀行が、それぞれ政府によって破綻認定を受けて実質国有化されることになった。
それは金融崩壊とでも表現すべき状況であった。