2024年1月号掲載
寛容についての手紙
Original Title :A LETTER CONCERNING TOLERATION (1689年刊)
著者紹介
概要
政治と宗教は、はっきり区別しないといけない ―― 。現世の利益は為政者に、魂の救済は宗教に任せよ、と説いた“政教分離論の原典”である。原著刊行は、宗教の名によって、ヨーロッパで迫害や殺戮が横行した17世紀。この時代を生きたイギリスの哲学者が、信仰が異なる人々への“寛容”はなぜ守られるべきなのかを論じる。
要約
真の宗教の仕事
拝啓
貴方が、キリスト教徒相互の寛容について、私がどう考えているかをお尋ねくださいましたので、私自身は、「寛容」こそが真の教会を特徴づける主要な印であるとみなしている、と率直にお答えしなければなりません。
慈愛と謙虚さと善意が不可欠
といいますのは、ある人々が、教会の場所と名称との古さや、礼拝の華麗さをいかに誇ろうとも、また、他の人々が教会規律の改革をいかに誇ろうとも、さらにすべての人々が自らの信仰の正統性をどんなに誇ったところで、そうした事柄は、教会の印であるよりも、むしろ人々がお互いに他に対する権力と支配とを求めていることの印であるからなのです。
たとえ、誰かがこれらすべての事柄について正しい主張をしているとしても、もしその人が、キリスト教徒でない人々をも含む全人類への慈愛と謙虚さと善意一般とを欠いているとすれば、その人は間違いなく真のキリスト教徒たりえないということになるのです。
真の宗教の仕事は、全く別のことにあるのです。それが創られたのは、外面的な華麗さを打ち立てるためでも、教会の支配を手に入れるためでもなく、美徳と敬虔との規則によって、人々の生活を規制するためなのです。
キリストの旗の下に参じようとする人は、誰であっても、何にもましてまず自分自身の欲望と悪徳とに対して、戦いを挑まなければなりません。誰であれ、生活の浄らかさ、態度の純潔さ、精神の温和さと謙虚さを欠く限り、キリスト教徒であると名乗ったところで全く空しいことなのです。
「凡て主の名を称うる者は不義を離るべし」
(『テモテ後書』第2章19節)
宗教を口実に他人を迫害する人々
われらが主は、ペテロに対して「なんじ立ち帰りてのち兄弟たちを堅うせよ」(『ルカ伝』第22章32節)と語っておられます。
実際、自分自身の救済には関心を払っていないように見える人が、たとえ私の救済に関心があると言ってくれたとしても、私はとてもそれを信じられないでしょう。
なぜならば、自らの胸の内にキリストの宗教を真に抱いている人でなければ、他の人をキリスト教徒にしようと真剣に心から努めることなどできないからです。福音書や使徒たちを信じる限り、いかなる人も、慈愛心なしには、また、力によってではなく愛によって働く信仰なしにはキリスト教徒にはなりえないのです。