2004年2月号掲載
禅的生活
著者紹介
概要
「禅」「悟り」の世界など縁がないと思っている人こそ、手に取ってみるべき本。悲しい、辛い、憎いなど、我々に生きにくさを感じさせる「迷い」の根源が、何によってもたらされるか、どうすればもっと楽に生きられるかを、自由で伸びやかな禅の発想そのままに、禅僧にして芥川賞作家でもある著者が、柔らかに語りかける。肩の凝らない禅の入門書としても最適だ。
要約
自分の可能性を決めつけない
「可もなく不可もなし」 ── 。この言葉は、特に優れているわけでも、ひどいわけでもない、「まあまあである」というような意味で使われる。しかし、禅で使われる場合は全く違った意味になる。
これはもともと『論語』にある表現で、孔子が自らのことを言ったものである。孔子は、自分は、為すべきことや為してはならないこと、あるいは、これはオッケーでこれはダメ、というふうには決めつけていない、と主張しているのだ。
通常、我々が「自分」と思い込んでいるのは、理性で把握できる自己である。しかし、自分の中にある可能性は無限であって、理性が全てを把握しているわけではない。
だから、「可もなく不可もなし」という主張は、理性を最大限に重視する欧米の思考とは発想が逆なのだ。禅は、理性的思考を超えて、自己の内部は無限の可能性を秘めて渾沌としている、と認めるところから発想を始めるのである。
例えば、普通は「疲れたからアクビが出た」と考える。そして早く寝ようなどと思う。
だが禅的には、アクビによって心身ともにリラックスするのだから、「アクビを意識的にしてみたらどうか」などと考える。渾沌に意識という釣り糸を垂らし、そこから魚を釣り上げるように体や心をコントロールしようとするのである。
実際、それは可能である。まず軽く息を吐いてから口を開き、意識を両耳を結んだ中心点あたりに置く。それだけでしばらくすると後頭部が締まり出し、見事なアクビが一丁上がりとなる。
このことは単なるアクビの仕方にとどまらない。眠たいと思う「心」も、眠ろうとする「体」も、実は「意識」によってかなり誘導できる。
となれば、「可もなく不可もなし」という心構えも理解できるはずだ。やる前にできるかできないかを判断するのは、自分の可能性を見くびることである。禅的生活を送るには、孔子のように、「可もなく不可もなし」、つまり、自分はどんな可能性も秘めているのだ、と思うことである。
「迷い」の根源、「妄想」の正体
人間には、喜怒哀楽という感情の他に、もっと複雑な感情がある。例えば、憎しみや怨み、愛情といった感情(二次感情)である。