2006年2月号掲載
小さな人生論 「致知」の言葉
著者紹介
概要
先行きの不透明な昨今、人々は漠然とした不安のため、浮き足立っている感がある。そんな中、地に足をつけ、ひたむきに生きる人々がいる。彼らは感謝を忘れず、自らを磨くとともに、後進の者に心を配る ―― 。世界が激動している今こそ、1人1人にそんな生き方が求められるのではないか。著者はそう言い、人が生きる上で何が大切かを、味わい深く語りかける。
要約
人生をいかに生きるか
人は何のために生きるのか、どう生きたらよいのか —— 。この人生への問いかけに対し、著者・藤尾氏は、次のようなメッセージを贈る。
一隅を照らす
「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す、これ則ち国宝なり、と」—— 。伝教大師最澄『天台法華宗年分学生式』の冒頭に出てくる言葉である。これは、次の話を踏まえている。
昔、魏王が言った。「私の国には玉が十枚あり、車の前後を照らす。これが国の宝だ」。すると、斉王が答えた。「私の国にはそんな玉はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守る人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」。
この話に感応した安岡正篤師は、以来、「一燈照隅」を己の行とし、この一事を呼びかけ続けた。
「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。(中略)社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」
その立場立場においてなくてはならぬ人になる、「一隅を照らす」とはそういうことである。
国も社会も会社も自分の外側にあるもの、と人は考えがちである。だが、そうではない。そこに所属する1人1人の意識が国の品格を決め、社会の雰囲気を決め、社風を決定する。
世界が激しく揺れ動いている今こそ、1人1人に一隅を照らす生き方が求められている。
人を育てる
太宰春台の『産語』には、次のような話がある。
松の苗木を植えていた老人に、通りがかった君主が年齢を尋ねた。「八十五になります」と老人が答えると、君主は笑った。「その松が立派な木材になっても、自分では使えないだろうに」と。
八十五翁は言った。「国を治めている人のお言葉とは思えませぬ。私は自分のためではなく、子孫のために植えているのです」。