2007年7月号掲載
武士道 いかに生き、いかに死ぬか
著者紹介
概要
日本独自の精神文化である「武士道」。だがそれを、我々は正しく理解しているだろうか。例えば、「武士は二君に見えず」という言葉。これは江戸時代の武家道徳で、それ以前に自然発生した本来の武士道とは似て非なるものだ。本書ではこうした武士道精神の変遷、そしてその真髄ともいえる武士の死生観などを、作家・津本陽氏が豊富なエピソードを交えつつ語る。
要約
「武士道」の源流
武士道とは、中世から近世へ移行する間の、戦乱の時代に生きた武士たちの間に、いつの間にかでき上がった道徳律であった。
あるいは、その起源はもっと古いかもしれない。人が法律によって守られない弱肉強食の時代、生きるか死ぬかの闘争を続けてきた戦士の間に、自然にでき上がってきた彼らの理想像が、後に武士道と呼ばれるものになったともいえよう。
武士道は忠、孝だといわれる。有名な『葉隠聞書』には「武士道とは死ぬこととみつけたり」とあり、これこそが武士道の心得の精粋とされた。
だが、このような考えは、徳川幕藩体制を永続させるために取り入れた儒教道徳である。
漢の高祖が天下を平定した時、凶暴な武将たちを規律に従わせるための精神的な檻として用いたのが儒教であった。家康は高祖と同じ手段を用い、武士を階級制度に柔順ならしめようとした。
「武士は二君に見えず」という信条も、江戸時代の武家道徳とされ、勝手に主家を退散する者は、破滅への道を歩まねばならなかった。
江戸時代260余年間、諸侯や家来たちは大体、関ヶ原合戦の後に身分、封禄が決まってしまった。そのため、立場がほとんど固定化し、有能、無能を問わず、先祖から受けた家禄を引きついでゆくより他はなかった。
当然、有能な者は不満を持つ。その彼らを忍従の生活に甘んじさせたのは、忠孝を最も重しとする武士道で、それは本来、日本の侍の間に自然発生した武士道とは、似て非なるものであった。
鎌倉・室町の武士は、ひたすら戦闘集団として機能した。そこでは、武勇が第一に重んじられた。
そして、もう1つ、彼らが重んじた道徳律が「廉恥」、つまり恥を知ることであった。
では、武士は何をもって最も恥としたか。