2008年7月号掲載
なぜ日本人は学ばなくなったのか
- 著者
- 出版社
- 発行日2008年5月20日
- 定価792円
- ページ数221ページ
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著者紹介
概要
「日本人は勤勉」。これまで、国際社会ではそう言われてきた。しかし、それも今は昔。人々からは学ぶ意欲が失われ、「バカでもいい」という開き直りの空気すら漂っている。なぜこうなってしまったのか、本書はその原因や背景を探る。併せて、学ぶことに憧れを抱いていた頃の日本人の姿を追い、かつて人々に息づいていた向学心を蘇らせるための方策を示す。
要約
「バカ」を肯定する日本社会
かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。しかし現在、勤勉なる日本人は神話と化した。実態は、学び嫌いの日本人である。「バカ」とでも表現するしかない事態が日本を侵食している。
ここで言うバカとは、学ぼうとせずに、ひたすら快楽にふけるあり方のことだ。学ぶ意欲が内発的に起きてこない、いくらでも学ぶ道があるのにゲームやメールに時間を注ぎ込んで疑いを持たない、そんな日本人が増えている。
では、なぜ学ばなくなったのか。それは、「リスペクト」という心の習慣を失ったからである。
かつての日本人には、何かに敬意を感じ、憧れ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が自然に身についていた。それを象徴するのが、仏教の教えである「仏法僧の三宝を敬う」だ。
例えば、孔子の『論語』を学ぶ時、まず「子、のたまはく」の一言が出てくる。要するに「先生がおっしゃるには」と孔子への敬意を込めているわけだ。これは「仏法僧」の「仏」に相当する。
また、『論語』というテキストへの憧れ、それを教えてくれる先生への敬意もあった。これがそれぞれ「法」と「僧」に当たる。そういう感情が、生活習慣の中に根づいていたのだ。
「ノーリスペクト社会」の到来
ところがある時期を境に、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂い始めた。
そこには教養への敬意はないし、学ぶべき書籍の価値もわからない。先生への畏敬の念もない。つまり、「ノーリスペクト社会」が到来したのだ。
今は自分という核を持たないまま、ひたすら「何か面白いものはないか」と探し回っている。世の中はこれを「自分探し」と称しているが、こういう風潮が始まったのは1980年代頃からだ。
かつてなら、情報を生み出したり、調べたことを発表したりすることは、それ自体が尊敬される対象だった。読書にしても、そこで展開されるのは、著者が自分1人に語ってくれる静かな時間であり、それによって自分を掘り下げる時間だった。
だが今や「情報はタダ」という認識が一般化している。それを助長しているのが、インターネットだ。ネット上では、学問の大家が心血を注いで書いた言葉もアイドルの言葉も、全て並列的に同じ情報として扱われている。