2021年8月号掲載
社会思想としてのクラシック音楽
著者紹介
概要
時代を超える名曲を生んだ近代西洋の音楽家たち。バッハ、ハイドン、モーツァルト…。彼らの創作活動は、当時の社会体制と深く結びついていた。それはどのようなものだったか。クラシック音楽に造詣の深い経済学者が、名曲の数々を交え考察する。音楽をめぐる近代史を社会科学の視点から読み解いた、リベラル・アーツ講義。
要約
芸術の「送り手」は誰を意識したか
音楽作品は、本質的に人間の精神活動の産物であり、「個人」のアイディアと技によって生み出される。だが、美という価値意識を作り上げる要素として、その個人が現実に生きた社会体制を無視することはできない。
18世紀以降の西洋音楽(クラシック音楽)に限っても、作曲家たちはどのような政治経済体制のもとで、作品を創造していたのか。注文主やパトロン、受け手側からの評価を意識していたのか、いなかったのか。その点を考慮せずして、芸術活動を論ずることはできないのではないか。
そこで、芸術家たちの職業生活と、芸術を享受する人々の趣味の世界を、社会体制の影響を読み取りながら捉え直してみよう。
匿名の時代からの変化
もともと芸術作品を生み出した人々には、その作品と上演を神事の折に神様に捧げるという姿勢があった。楽器の製造についても同様の慣習があり、誰のために作ったのかが重要だとして、製造者の名前は多くの場合、匿名だった。中世は、社会の中に個人が埋没していた時代ともいえよう。
18世紀末までは教会、王侯貴族が音楽を注文し、音楽家がその注文に応じて作品を生み出した。
その後、デモクラシーと市場経済が社会の基本制度となると、音楽の生産過程と演奏される場所にも変化が生じる。この変化は、西欧の政治とキリスト教の位置づけの変化とともに進行した。
教会のミサなど典礼のための実用の音楽としての位置だけでなく、宮廷の王侯貴族の気晴らしや遊び、ブルジョワジーの特別な行事のための付随物としての役割の比重が大きくなった。そして人々の生活の中で占めるキリスト教の重みが失われ始めると、音楽も「教会」から「劇場」へと、その創作目的や演奏の場所を移し始めるのである。
教会から劇場へ
場所の変化は、曲の形式などにも表れる。ただ、変化は一気に起こったわけではない。音楽がどこに行けばよいか、迷い、躊躇しているような移行期間があった。それを示すのが、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品群だ。
ハイドンは、モーツァルトとほぼ同時代に、ほぼ同じ地域で活動した。ハイドンがモーツァルトを凌ぐような作品を残した分野は、ミサ曲であろう。ハイドンのミサ曲は、音楽が教会と劇場の間を彷徨う姿を見事に示している。
ハイドンは、ハンガリー国境近くのエステルハージ侯爵家の宮廷楽長として生涯の大半を過ごした。そのため、彼の作品の中で、宗教音楽が占めるウエイトはさほど大きくない。また、オペラ作品も多くはない。辺境の城で仕事をしていたため、ウィーンなどの大劇場での上演の機会があまりなかったことが、オペラへの熱意を生まなかったとも考えられる。
ともあれ、彼の作曲家としてのキャリアはミサ曲に始まった。作曲したミサ曲14曲のうち、特に晩年に作曲された6曲は宗教と音楽の関係を暗示するような作品であると同時に、作品からの感動が宗教的なものであるのか劇場的なものであるのか、戸惑いを覚えさせるような例となっている。