2024年10月号掲載
老いに歎異抄
著者紹介
概要
“老い”は誰にでも訪れる。そして、歳を重ねるほどに私たちは悩み、迷う。「あの時、ああしていれば」「これから自分はどうなるのか」…。こうした葛藤とどう向き合えばいいのか? そのヒントは、『歎異抄』が授けてくれる。私たちの「生き方」を問い直すこの書の教えを、作家にして僧侶である著者が多面的に読み解く。
要約
「老いの壁」と歎異抄
鎌倉時代の仏教書『歎異抄』は、「異を歎く」 ―― 親鸞の教えが時代の流れの中で間違った解釈になっていることを弟子の唯円が嘆き、筆を起こしたものである。
『歎異抄』は浄土真宗の教義について書かれたもので、「生き方」を説いたものではない。しかし、読み進めると、親鸞の言葉が鋭く心に迫ってきて、否応なく自分の生き方に対峙させられる。
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人生は100年時代を迎えた。かつて隠居の歳であった70代は、社会の担い手としての役割が求められるようになった。老いを前に新たな道を突っ走るのか、あるいは決断ができぬまま立ち止まるのか。悩み、迷い、葛藤しつつ「生き方」の決断を迫られるのが晩年ということだ。
そんな「老いの壁」を前にして迷う私たちに、『歎異抄』は一条の光明を与えてくれる。
最悪を覚悟すれば人生、怖いものなし
後悔と不安 ―― 。老いに正比例するかのように、この2つにとらわれて気持ちが揺れ動く。半生を振り返れば、「あの時、こうすればよかった」という後悔が脳裡をよぎる。一方、これからに目を転じれば、健康や生活などの心配ごとばかり。
気持ちが揺れ動く時、次の一節が心に重く響く。
《いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし》(第2条)
「一定」とは「必ず、間違いなく」という意味で、「微塵の善さえできない私は、地獄のほかに行き場がない人間だ」と親鸞はいっているのだ。
この言葉は、関東の弟子たちが京都の親鸞をたずね、信仰上の疑問について問うた時の返答で、「地獄に落ちるしかない私はただお念仏して、必ず救うという阿弥陀如来の本願を信じるばかりです」と彼らに告げるのである。
現代では、本気で極楽や地獄の存在を信じている人は少ない。しかし、親鸞が生きていた当時は、極楽や地獄はリアルな存在である。だから当時の人は極楽浄土への往生を心から願ったわけだが、そういう時代に親鸞は、「私のような人間は地獄へ落ちるしかない」といい切ったのだ。関東からたずねていった弟子たちは仰天しただろう。