2005年5月号掲載
できる人になる生き方の習慣 スイスの哲人ヒルティが教える97の処世訓
著者紹介
概要
約100年前にスイスの思想家ヒルティによって書かれた『幸福論』。その中には、仕事の仕方や習慣について、今も変わらない洞察と教訓が数多く残されている。本書では、ヒルティを恩人、『幸福論』を恩書だという著者が、自らの体験や感想を交えながらそれらを解説する。実践的な仕事術だけでなく、生活の心得などにも触れ、含蓄に富む内容となっている。
要約
ヒルティの生涯
明治以来、日本人に最も好ましい影響を与えた欧米の思想家を何人か挙げるとすれば、カール・ヒルティは必ずその中に入るに違いない。彼は、西ヨーロッパの「古きよき時代」の最も立派な人の1人だからである。
ヒルティは1833(天保4)年、スイスのザンクト・ガレン州の祖父の家で生まれた。学業は抜群で、ドイツのゲッチンゲンの大学で法律を3年やり、さらにハイデルベルグの大学で学んだ後、スイスのグラウビュンデン州で弁護士を開業。親切で有能な弁護士として、州全体に名声が広まった。
68年、35歳の時に「民主政治の理論家と理想家」という論文を書き、これが評価されて、74年にベルン大学法学部の教授となる。
彼はまた、23歳の時にスイスの習慣に従って陸軍に入り、法律関係の軍人になっている。そして29歳で大尉、旅団陪審判事、43歳で少佐、師団大判事、53歳で大佐、57歳で最高陪審官代表、59歳で主席法務官、つまり裁判長になっている。
このように法務官として、ヒルティは長い間、軍籍にあった。この体験によって、彼は軍隊というものを高く評価し、青年が軍隊に入ることは極めて重要なこと、価値あることと認めている。
91年、58歳の時に『幸福論』を出版した。第2巻は95年、第3巻は99年に出版された。同書は様々な国で翻訳され、米国のルーズヴェルト大統領が学生に勧めたりしている。
1904年、ヒルティはハイデルベルグ大学から名誉法学博士号を授けられた。
さらに1909年、76歳の時に、ジュネーヴ大学からも名誉法学博士の称号を与えられた。そして同年10月、ジュネーヴ湖畔にあるホテル・ミラボーで、心臓麻痺で亡くなった。
この日、彼はいつものように、朝起きてひと仕事してから散歩をし、帰って休んでいてそのまま息を引き取ったのである。
彼の机の上には、聖書と祈祷書と、書き終えたばかりの原稿『永遠の平和』があったという。
仕事する技術
ヒルティは「働く技術はあらゆる術の中で最も大切なものだ」と語っている。彼は終生、労働を重んじる発言をし、自らも死ぬまで勤勉だった。