2020年8月号掲載
禅とはなにか
- 著者
- 出版社
- 発行日1979年7月10日
- 定価858円
- ページ数195ページ
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著者紹介
概要
今日、日本だけでなく、世界的なものとなりつつある禅。その思想は、忙しい現代人の“心の問題”に応えてくれる ―― 。禅修行を経験した仏教学者が、深い学識に裏付けられた研究成果を基に、禅の世界をわかりやすく説いた入門書である。自分を縛るものから解放され、あくせくせず、心豊かに生きるヒントを与えてくれる。
要約
禅の思想
中国の大地に根ざして、独自な展開をとげた仏教の1つに「禅」がある。
インドの知性的な仏教が、中国の伝統思想である老荘思想などと融合して結実したのが禅である。禅の思想は、さらに日本に伝来して、日本文化を形成する大きな要素となった。
心の問題
最近、人間性の回復ということがいわれている。人間性回復とは、簡単にいうと「心」の問題だ。私たちは、目前の様々な快楽に追われて、心の健康ということにはほとんど注意を払っていない。
私たちの心の問題を考える場合、精神分析学や心理学などがあるが、これらは悩める心を救うものではない。私は仏教の中に、心の問題を考える何かがあるのではないかと考えている。
奈良に薬師寺があるが、この寺は法相宗の大本山である。法相宗は別名、唯識宗ともいわれるように、“唯識の教え”を説いた。
唯識の教えとは、すべての現象を“意識”の活動からとらえる宗旨である。普通、小乗仏教では六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)をたてるが、法相宗では意識の外に「末那識」と「阿頼耶識」の2つを追加し、合計八識をたてる。
・末那識
末那識とは我執の根本であり、執着をもってその特性としている。俺が、俺がというのが末那識である。自分が可愛いと思うのも末那識である。
「泣きながら 良いほうを取る 遺品わけ」という川柳がある通り、人間というものは、意識ではわかっていても行動では自己中心となるものだ。親に死なれた悲しみのどん底にあってさえも、私欲を離れることができないのだ。
・阿頼耶識
阿頼耶は梵語アーラヤの音写語である。アーラヤとは蔵のこと。何を貯蔵するかといえば、過去から現在に至るまでのすべての経験だ。
自分だけでなく、自分の両親や祖先の犯したありとあらゆる経験を貯蔵しているのが阿頼耶識だ。人間は自分一代ではなく、無限の過去と無限の未来に連続している、とする。
茶室で香りのよい香をたく。そこにしばらく座っていると、衣服によい香りがうつってくる。これを仏教では「薫習」というが、我々が毎日行っている経験や行為は、薫習されて種子となり、すべて阿頼耶識の中に蓄積されてゆく。