2012年10月号掲載
無いから出来る 大石順教尼の生涯
著者紹介
概要
明治21年、大阪に生まれた大石順教尼は、17歳の時、気のふれた養父により両腕を切断される。その後、巡業芸人等を経て出家、日本初の身障者更生施設を設立し、身障者の自立のために尽力した。他を怨むことなく、苦悩の底を生き抜き、多くの人に生きる希望と勇気を与えた“日本のヘレン・ケラー”、順教尼。その感動の人生を、尼に師事した石川洋氏が描く。
要約
大石順教尼の生涯
人生には3つの坂道があるという。1つは“上り坂”、2つは“下り坂”、3つは“まさかの坂”である。上り坂と下り坂は人生の常である。人は、時には上り坂の幸せを味わい、時には下り坂の辛さに落ち込む二面性を経験するのである。
従って、人生の重さを体得した人は、上り坂の時には驕らず、感謝と謙虚さを守り、下り坂の時には自分を駄目にせず、明日を信じて生きることを知っている。結局は、人生の安定は、上りでも下りでもない“平常心”を養うことにある。
問題なのは、まさかの坂との出会いである。人生においては、往々にして想像もしなかった不慮の出来事に遭遇し、なすすべもなく絶望の渦に巻き込まれていく。私たちは大なり小なり、このまさかの坂を越えていかねばならないのである。
大石順教尼は、そのまさかの坂をしたたかに経験し、人生のどん底を生き続けながら、ついには“無手自在”の活路を見いだした人である ―― 。
双手を失う
大石順教尼は、本名を「よね子」という。明治21(1888)年3月14日、大阪の盛り場、道頓堀の「二葉ずし」の長女として生まれる。
3歳の時、よね子は京舞・山村流の山村きみに師事し、10歳にして名取りとなる。やがて、大阪・堀江の技芸委員長をしていた山梅楼の主人、中川万次郎の眼にとまる。そして、彼の養女として「妻吉」となり、西川流舞踏を習う。
この養父、万次郎の囲い者に、おあいという芸者がいた。おあいは身持ちが悪く、万次郎はそのことに心を悩まし、ついには常軌を逸していく。
明治38年4月中旬頃、おあいは家出をし、行方をくらました。店の芸妓がその行く先を隠していると思い込んだ万次郎は、6月21日の明け方、芸妓たちの寝室に踏み込み、6人に凶刃を振るう。5人が絶命、妻吉だけが両手を切り落とされて、血の海の中で一命をとりとめる。当時の新聞は、「堀江六人斬」という見出しでこの事件を報じた。
なぜ、妻吉だけが一命をとりとめることができたのか。私は順教尼にそのことをお尋ねしてみた。
「私は、逃げなかったからだよ」
後から思うと、亡くなられた5人の妓は悲鳴をあげて逃げたために、後ろから日本刀で切りおろされたのだと思う。私は、養父さんはそんなことをする人でない、何かの間違いだ、と信じて逃げなかったからだと思う、と語って下さった。