2017年8月号掲載
得手に帆あげて 完全版
著者紹介
概要
1991年、84歳でこの世を去るまで、生涯“技術屋”を自任した本田宗一郎氏が、生き方について語った書。個性を充分に活かしてこそ人生は楽しい ―― 本書のあとがきの言葉通りの人生を歩んだ氏の哲学は明快で、読む者の心に響く。「経験にこだわるな」「能ある鷹は爪を誇示せよ」など、示唆に富む言葉が全篇にあふれている。
要約
充実した人生をモノにしろ
私は、人間が人間らしく生きる最高の方法は、自分の個性を開発し、育成して、それに従って生きることだと思う。これによって人生は楽しく、能率よく暮らせるのではないかと思う。
栄光への道
小学校4年生の頃、村に初めて現れ、青白い煙を尻からふき出しながら、悪魔のように村を通過していく自動車に、私は完全に魅了された。
その頃から私の抱いた最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思いきりすっ飛ばしたい、ということであった。その念願が達成できるのはいつのことか予想もつかなかったが、いつかはその時が来ると信じて疑わなかった。
私は小学校高等科を終えると上京し、「アート商会」という自動車修理工場のデッチ小僧になる。ここで6年間働いた私は、自動車の構造はもちろんのこと、修理のコツも呑み込んだし、自動車の運転も習得した。そして、22歳の春、浜松へ帰郷し、主人から分けていただいた「アート商会浜松支店」を開店、店主として独立した。
開店当初は、店主兼修理工である私があまりにも若僧だったせいか、客もなかなかなかったが、とにかく一通りのことは何でも修理できたので、次第に見直されるようになった。
工場は、数年たたないうちに工員も増え、50名ほどになった。しかしそのうちに、修理工場などはいくら伸展したところでタカが知れているという妙な考えにとりつかれるようになった。いくら修理技術がすぐれているからといって、東京からわざわざ頼みに来るわけでもない。
そこで、私は修理工場をピストン・リングの製造工場に転換した。「東海精機株式会社」の看板を掲げ、新しい仕事に全情熱を傾注し始めた。
しかし全く思うようにできない。歯を食いしばって、鋳物の研究に取り組み続けたが、その努力は一向に実りそうもなかった。貯えも底をつき、妻のものまで質屋へ運んだこともあった。
「今ここで挫折したら、皆が飢え死にするしかない」と自分を励まし続けた。そういう中にあって、どうにか物になりそうなピストン・リングを作ることに成功した時には、製作し始めてから9カ月の月日が流れていた。この時代の生活との苦闘こそ、後年の私の背骨となったと思っている。
ピストン・リングは終戦の年まで製作した。だが終戦になると、船も飛行機もいらないから、ピストン・リングなど誰も必要としない。仕方なく製塩をやったあと本田技術研究所を設立し、モーターバイクを製造したのである。この頃は1つの新しい事業を起こすと、ことごとく面白いように当たったものである。
しかし私の経験から考えて、これは簡単にできるわいと考える人は、いわば素人である。人間は、経験をつめばつむほど、本職になればなるほど、仕事そのものは難しくなってくる。そして真のエキスパートは、不可能の壁を打ち破るところに、無上の喜びを持つものだ。