2019年7月号掲載
思い邪なし 京セラ創業者 稲盛和夫
著者紹介
概要
京セラ(株)名誉会長・稲盛和夫氏の評伝である。「アメーバ経営」などの経営ノウハウや、「利他」の経営哲学はいかにして生まれたのか。若き時代から今日までの歩みを、本人へのインタビューと資料を基に克明に描く。その足跡からは、“思い邪なし” ―― 人として正しい道をまっすぐに歩もうとする、ひたむきさが浮かんでくる。
要約
伝説のはじまりから今日まで
昭和33年(1958)の年の瀬。7人の若者と1人の初老の男が、京都の南の郊外にある社員寮の一室に集まっていた。
建て付けの悪い窓ガラスはカタカタと鳴り、すきま風が吹き込んでくる。だが、その部屋だけは熱気が充満していた。輪の中心に立つ痩せた青年が興奮して語る言葉の端々に、鹿児島弁が混じる。
堪忍袋の緒が切れ、新会社を設立
彼はこの時、元上司や同僚と一緒に独立し、新会社を立ち上げようとしていた。若者の名は稲盛和夫。まだ26歳という若さだった。
稲盛の青年時代はツキに見放されていたと言っていい。旧制中学の受験に2度失敗し、大学受験も志望校は不合格。就職でも希望した会社に次々と断られた。見かねた大学の教授が紹介してくれた京都の松風工業も、倒産寸前の会社だった。
たまたまこのおんぼろ会社は、夢の素材の研究に取り組んでいた。セラミック材料の開発である。当時、敗戦国日本の技術力で、このような高度なものを作れるはずがないと誰もが考えていたが、稲盛はそれに果敢に挑戦し、見事成功する。
だがその2年後、セラミック真空管の製作に取り組んでいる時、新任の技術部長が暴言を吐く。
「君では無理やな。うちには京大卒の技術者もようけおる。ほかの者にやらせてみるわ」
心ない一言に堪忍袋の緒が切れた稲盛は、辞表を叩きつけた。すぐに彼を慕う仲間が立ち上がり、新会社設立を誓い合ったのだった。
飽くなき挑戦
「ど真剣に生きてみろ」「手の切れるような製品を作れ」「土俵の真ん中で相撲をとれ」…。稲盛は自らの思いをこめた情熱的な言葉で、新会社京都セラミックの社員たちを熱く燃えあがらせた。
果たしてセラミックスは、急速な技術進化を遂げていく。一例が「ICパッケージ」だ。電子機器に欠かせない部品として登場した集積回路(IC)は、実に脆い。そのため絶縁体のパッケージに入れる必要があるのだが、その材料としてセラミックスがうってつけだとわかった。加工には高度な技術が求められたが、その壁を乗り越え、ICパッケージは京セラの主力商品となっていく。
だが彼は、成功に安住せず、新たな挑戦に出る。第二電電(DDI)の設立だ。通信自由化をビジネスチャンスと捉えた彼は、現在のKDDIの前身であるDDIを設立。巨人NTTに果敢に挑み、通信コストの大幅な引き下げを実現した。